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HPリニューアル記念特別企画 「電子往復書簡 『Kanon』〜最後尾の旋律〜」 第五回 「恋人たちの黄金律」 2002/10/13 十五夜 |
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私たちにとって学校とは特別な場所です。 |
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日本では高校への進学率も実質的義務教育と言ってよいほどの高水準が保たれています。日本の若者の大半が幼年期からティーンエイジの終わりまでを学校という空間で過ごしているわけです。私たちにとって学校生活とは青春と同義であり、不可分の意味を持っています。マンガなどのいわゆる“学園物”というのは世界的に見て特異なジャンル形成なのですが、社会の反映として見ればむしろ当然の存在と言えるでしょう。 |
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『Kanon』においても主人公は当然高校に通う男子生徒です。しかし内容的には必ずしも学園物ドラマというわけではありません。それどころか、学校以外の場所の方が主な舞台となっている印象があります。月宮あゆと沢渡真琴とは学校内で出会うことがないし、水瀬名雪の場合にしても部活で忙しい彼女とのすれ違いの場所でしかないのです。美坂栞シナリオも学園物と言えるような展開ではありません。その意味では、『Kanon』の中で川澄舞のシナリオだけが例外的に学園物であると言っていいでしょう。 |
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その最大の理由はやはりKOWA君が指摘した部分にあります。あなたは「主人公が夜、学校に行く→舞と会う」という展開の反復を、コマンド選択式アドベンチャーゲームの構造を利用した巧妙な心理操作として評価しました。この点は私も非常にうなずける解説です。そしてこれは川澄舞というキャラクターの大きな特徴でもあります。同じ屋根の下に住む名雪や真琴とは否応なく顔をあわせるし、栞とは事前に待ち合わせをして会うのだし、月宮あゆは約束を交わさなくとも「きっと、また会えるよ」と断言してくれます。しかし舞の場合、そう簡単にはいきません。端的に言えば、「学校に行かなければ舞とは逢えない」という積極性のある動機を相沢祐一(プレイヤー)に与えてくれることが、彼女の持つ魅力的な立場です。この前提的な動機こそ舞シナリオの学園物としての方向性を決定づけていると言えます。 |
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では、学園物として一体どのような物語が語られることになったのでしょうか。まず、あまりに唐突な舞の登場シーンが例の動機を生み出すきっかけです。夜の学校で剣を振りかざす彼女は「私は魔物を討つ者だから」と言い、謎を残して去っていきます。この時点で祐一にとって彼女の存在は「夜の学校に出没する謎の少女」として認識されます。彼女の存在自体と出現場所を切り離すことのできない出会いなのです。その意味では祐一にとってこの時点での舞は「夜の学校に出没する謎の魔物」とまったく変わることのない認識の仕方であると言えます。実際、魔物とは舞自身が生んだ自らの“影”に他なりません。この『ゲド戦記』(アーシェラ・K・ル=グウィン)の「影との闘い」を思い起こさせる設定自体は意外でもなんでもないのですが、舞台が学校であればこそ私たちはそこに特別な意味を読み取ることができます。 |
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KOWA君は「精神的に非常に弱い舞がどうやって学生生活を今まで続けてきたか」と考え、それは倉田佐祐理という協力者がいたからだと言いました。私の考えは少し違います。確かにいびつで脆い心を持つ舞は真っ当な社会生活を送ってきてはいないでしょう。しかし、学校生活を送ることはできるのです。学校とは社会から隔離されたある種の聖域となり得る場所であり、特に心の内に乗り越えられない何かを抱えさまよう者にとっては、学校こそ通過儀礼(イニシエーション)を可能にする唯一のアジールとなります。社会として大人になるための通過儀礼の場を喪失した現代の日本において、学校以外にその舞台を見つけることができないという事実こそ、少年少女向けの作品で学園物が繰り返し描かれる理由に他なりません。この視点から見て、私は佐祐理が「過去に何かを乗り越えた存在」だという風にも考えません。彼女が過去に辛い出来事を経験したというのはその通りですが、未だそれを乗り越えたと言える状態には至っていないでしょう。むしろ舞と出会って、ようやくそれを乗り越えようとしている、その途上に彼女はいるのです。つまり彼女は舞と同じで、学校という聖域で通過儀礼を果たそうとしている繊細な少女に過ぎません。観念的な読解をしなくても、彼女の言動からは家庭から逃げて学校に来ているフシが端々に見て取れます。舞と佐祐理は確かに「協力者」という関係を結んでいるかも知れませんが、それは強い佐祐理が弱い舞を支えているというような一方的なものではあり得ません。彼女たちは互いの通過儀礼を乗り越えるという共通の心を持った、学校という聖域における対等な「協力者」なのです。ですから、あなたの問題提起は逆でなければいけません。「精神的に非常に弱い舞がどうやって学生生活を今まで続けてきたか」ではなく、「精神的に非常に弱い舞は学校という聖域でしか生きられない」、と。 |
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舞が放校処分を受けそうになった時、祐一と佐祐理はどうしたでしょうか。一歩引いて考えれば、祐一ならこの局面で「こんな学校、俺たちもやめてやる!」と言い出しそうなものです。そして「今日からこの大木の場所が俺たちの学校だ」という展開にでもなったらあゆと舞の絡みがあり得たかも知れません。しかしそうはならずに、祐一と佐祐理は何としてでも舞を学校に引き戻そうとします。それは舞が学校という聖域でしか生きられないからであり、また、佐祐理や祐一にとっても舞という「協力者」が自分たちの学校生活に必要だからです。 |
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しかし聖域といっても肯定的な側面ばかりではありません。その事を知るために、ここで魔物と闘う夜の舞だけでなく、彼女の昼間の姿に目を向けてみましょう。やはりそれは昼休みに祐一と佐祐理と三人で弁当を囲んでいる姿に尽きます。 |
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彼らはここで疑似家族的な関係を形成しています。亡き弟への贖罪意識を抱えている佐祐理がある種の母性を引き受け、そして祐一が父性の役割を引き受けています。もちろんこれは彼の性別が男だからという理由だけではありません。もともと祐一は深層意識で「一人の少女(との約束)を守れなかった」、「少女(との約束)を守りたい」という感情を抱えており、父性的な力を求める傾向を強く持っています。もっとも分かりやすいのは名雪シナリオのラストで、母性喪失の危機に直面した名雪に強い父性を示すことで彼女を救ってやるという展開です。祐一は「名雪は、女の子なんだから/強くなくたって、いいんだ」と言い切ります。ジェンダー論が盛んな昨今、このような性差強調の発言はあまりよろしくないと私個人は思いますが、父性に憧れ、それを責任を持って実践しようとする祐一の姿がよく表れています。また舞シナリオの中でも、祐一は「男が女に守られているばかりじゃ情けない、俺が舞を守ってやるぐらいじゃないと」という思いからあれこれと努力を重ねます。社会的男女同権が叫ばれる昨今、このような男女分業制を肯定する発想はあまりよろしくないと私個人は考えますが、これは決して彼が固定観念に捉われているのではなく、過去の辛い出来事によって女の子を今度こそ守りたいという感情が抑えられないのだと説明することができるでしょう。 |
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そして舞はもちろん、子どもの役割ということになります。結論から言ってしまえば、舞が格闘し続けた魔物とは彼女の幼少期の罪が生んだ自らの影です。そしてKOWA君が言ったように、舞はその影を直視することから逃げ続けているわけです。幼少期の自分の分身である影が生き続けていること、その影と向き合うことから今現在の舞が逃げ続けていること、このふたつの点で舞は全くもって未成熟な存在であると言えます(ここも私とKOWA君の考えが異なる所です。私は真琴と同様に舞も本質的に子どもなのだと考えます)。 |
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以上のような擬似家族関係は、差し当たって恋愛の問題を棚上げにする側面を持っています。舞と祐一がふたりで食堂に行くと「倉田は身を引いて晴れてカップルになったのか」などと冷やかされる場面がありますが、ここで祐一は怒るどころか「周囲からはそんな風に見えるのか」と純粋に驚いています。当人たちにとっては昼休みの親密な関係に恋愛感情を持ち込むことがあらかじめ回避されていて、冷やかしの発想自体が“思いもよらない”ものとして感じられているのです。私が第三回の書簡の中で「川澄舞と倉田佐祐理はそもそも三角関係に陥らないところからストーリーが始まっている」と書いたのは、この疑似家族関係のことを指していました。そして、そのような関係性でストーリーが進んでいくのに、放校処分を受けて学校を去ろうとする舞に祐一が突然「おまえのことが好きだからなっ!」と叫ぶのは、KOWA君の言ったようにプレイヤーにとって“思いもよらない”唐突なものです。 |
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ただし、この展開はプレイヤーが「好きだった」とコマンド選択した結果ですから、上の批判は無効なのかもしれません。それよりも奇妙なのは、この告白の後も疑似家族関係がしっかり維持されていくということです。物語のクライマックスに、祐一は傷ついた舞を抱きかかえて、こともあろうに「卒業したら佐祐理さんと三人で暮らそう」とまで言っています。一体、祐一にとって舞と佐祐理という二人の女性はどういう存在なのでしょう。名作ラブコメマンガの故事に倣えば「佐祐理さんはLIKE、舞はLOVE」ということになるのでしょうが、それならば何故に祐一は佐祐理でなく舞を選んだのでしょうか。 |
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ここで私は聖域と通過儀礼の話に戻したいのです。この視点から彼らの関係性を見ていくと、佐祐理の通過儀礼に必要な協力者は舞であって祐一ではないと言うことができます(その意味ではむしろ佐祐理の方が舞に依存するところが大きい、と私は考えます)。しかし、舞が助けを求めているのは祐一以外にいません。彼女が影の呪縛から逃れるためには祐一が必要だからです。その点は過去の因縁として明らかにされています。現在の時制においても、夜の舞の姿を知るのは祐一だけで佐祐理すらもそのことを知らないという関係性によって、そのことが示されていると言えるでしょう。 |
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こうして見ると、祐一が佐祐理でなく舞を選んだ理由が自ずと浮かび上がってきます。祐一は自らの通過儀礼のために、自分を必要としてくれる少女をこそ必要としているからです。実は祐一が過去の記憶を克服するために体現しようとする父性は、母性に癒しを求めるようなものではなく、もっとマッチョ的なものだと言えます。彼にとっては少女を救うことが自らの癒しになり通過儀礼の達成になるのです。 |
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しかし、協力者だとか家族だとか恋人といった関係性の中だけで彼らの通過儀礼が完了するのであれば、それはあまりに甘いおはなしです。疑似家族関係の他にもうひとつ、昼食の場面で興味深い点があります。それは三人が集まっている場所です。そこは校舎の最上層、屋上へ通じる出口がある踊り場です。確かに実際の学校でもこういった場所を昼休みの根城にしているグループはよくいます。ですから、なかなかにリアリティのある設定だと個人的には思いました。一方で、聖域としての学校においてはこの場所にも象徴的に大きな意味があるとも感じながらプレイを進めていたのです。どういうことかというと、あの踊り場は行き止まりと出口という矛盾する要素を合わせ持っています。ですが、屋上に通じているであろう扉は一向に開かれません。あの場所は行き止まりのままです。私はプレイを進めながら「きっと何かのきっかけで祐一はあの扉を開くことになり、そのときに舞と佐祐理どちらと一緒に開けるのかが、片方を恋人に選択する告白の役割を果たすのではないか」と予想していたのです。 |
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もしも、舞が克服しなくてはいけない影の存在が、祐一との愛だけでどうにかなる程度のものなら、それでよかったのでしょう。しかし、繰り返しますが舞が乗り越える通過儀礼はそのような甘いことですまされないのです。ここで学校という聖域の裏の側面が見えてきます。私は先に「精神的に非常に弱い舞は学校という聖域でしか生きられない」と書きましたが、それは同時に「舞は学校に閉じこめられている」ということをも意味するのです。考えてみれば、彼女のテーマ曲のタイトルは「少女の檻」、檻とは学校のことに他なりません。 |
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実は祐一と舞の関係は重層的な形を取っていて、それぞれの視点で意味が大きく変わってきます。確かに舞にとって祐一は影の呪縛から逃れるために必要な存在です。しかし、それゆえに舞を学校という檻に閉じ込めてしまったのも祐一であると言わなければなりません。なぜなら、舞にとっても「学校に行かなければ祐一とは逢えない」からです。 |
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つまり、舞が通過儀礼を乗り越える上で課せられた条件は以下のふたつということになります。 |
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1)魔物(影)に打ち勝つには祐一が必要である。 2)学校という檻(聖域)から逃れるには祐一の力に頼ってはいけない。 |
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私たちは魔物と檻というふたつの呪縛をつい混同してしまうかもしれませんが、おそらくそれは別の問題として捉えるべきものです。あるいは、影との悲劇的な分裂が起きた時点で通過儀礼はふたつ分用意されてしまったと言ってよいかもしれません。そして舞はふたつの課題をいかにして乗り越えたのでしょうか。 |
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影との最後の闘いで、舞と祐一は例の踊り場まで追いつめられます。そこで祐一が囮になって影を中庭まで誘導しますが、とうとう捕まえられます。その瞬間、月をバックに舞が屋上から飛び降りてきて影に渾身の一撃を与えるのです。そこで祐一の視点がとらえたのは舞が魔物を打ち倒す姿だけなのですが、しかしその直前に彼女はあの踊り場の扉を、祐一の力を借りずに開き、屋上から飛び降りているわけです。彼女は一人の力で学校という檻から脱出してみせ、そして影を克服する。舞の通過儀礼の完遂があの一瞬に集約されて見事に描かれているのです。 |
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最初の書簡で名雪シナリオを実質的に祐一シナリオだとした文脈で言えば、舞シナリオはそれこそ純粋な舞シナリオだと言えるかも知れません。舞をめぐる通過儀礼を描いた学園物としては、はっきりいって恋愛描写は副筋に過ぎない印象を受けます。また『Kanon』は回想シーンが非常に重要な使われ方をしているのですが、舞シナリオの後半の回想は伏線なしでかなり冗長に語られるので正直疲れます。その意味で舞シナリオは一般で言われる『Kanon』の魅力からは外れる部分が多く、評価がいまひとつであるのも仕方のないところです。しかし、五つのシナリオの中で唯一の学園物(それは久瀬との学園内政治劇から“卒業”まで、かなり自覚的に描かれています)として『Kanon』に必要不可欠な位置を担っているというのが私の意見です。 |
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それにしても、恋愛のカタチというのは多種多様で、その中からひとつだけ最良のものを提示するという試みは困難というより不可能であり、また無意味です。特に私たちが読んだり観たりして消費する物語の中では、得てして悲劇的な恋愛や不毛な恋愛が好まれます。KOWA君は異常状況下で抱いた感情をそのまま恋愛としてしまう方程式を舞シナリオと沢渡真琴シナリオに感じ、批判していましたね。それに対して私はこれまでの文章で、要するに舞シナリオははじめから恋愛なんて描いていないと言いたいのです。祐一の告白の場面にしても、舞はひとまず「…ごめんなさい」と言って、それから「…わたしも一緒にいたい/…祐一のこと、嫌いじゃないから/…一緒にいたい/…佐祐理と三人で」と続けているのだし、結局あのふたりはそこで恋人同士になったのかというとおおいに疑問です。むしろ私には「もう少しお友達のままでいましょうね」という意味にしか受け取れません。 |
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しかし、「信頼は恋ではない。/慈愛は恋ではない。」というあなたの文言は舞シナリオよりもむしろ真琴シナリオに向けられているというのは私の深読みではないでしょう。とすれば、この文言への賛否はまた別の問題です。それにしても、この文言はいかにもあなたらしい。まず「愛」とは言わずに「恋」と言っているところに謙虚さがあるし、「信頼」「慈愛」という柔らかな言葉の選択にもあなたらしい気遣いがあります。私ならこういう言い回しはせずに、「憐憫を愛だと思うな」と書くところです。 |
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なにも私は皮肉を言っているのではなくて、結局みんな真琴シナリオが好きなんだなあと思ったわけです。確かに真琴に対して祐一が抱く感情は理性的には疑問視されるべきものなのだけど、情緒の部分ではああいった慈愛の物語を受け入れてしまう部分があります。実際『Kanon』の中で一番泣けるのは真琴シナリオというのは大方の意見の一致するところでしょう。ですから私は祐一の恋愛感情をつらつら批判するのではなくて、なぜみんな真琴シナリオに感動するのかということについて考えてみたいのです。 |
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沢渡真琴というのは実はその昔に祐一が助けた子狐で、人のぬくもりを忘れられなかったために人の姿で祐一の前に現れた存在です。この段階で真琴シナリオは「鶴の恩返し」のような日本的な民話(民俗学用語では「動物報恩譚」と言います)の様相を呈しています。もともと日本的な情緒を持った物語構造なのだと言えるでしょう。 |
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と、まあここまでは誰にでも書けることです。私は、「鶴の恩返し」のような日本的な情緒に訴えかけるおはなしだから泣けるんだ、などという結論を出すつもりはありません。考えてみてほしいのですが、今時「鶴の恩返し」を聞いて涙を流す人がいるでしょうか。おそらく子どもだって泣きはしないと思います。もしいるとしたら、私はその人のことを現代人、いや近代人とさえ呼ぶことはできません。こういった事実を見ないで「真琴シナリオは動物報恩譚だ」などと指摘して悦に入っている人の目は節穴か、さもなくばよほど古典的で楽観的にできているのだと言わなければならないでしょう。 |
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むしろ私は、真琴の精神が次第に幼児化(動物化)していくという部分に、このシナリオの本質があると考えます。この展開は山田太一の小説『飛ぶ夢をしばらく見ない』と同一のもので、動物報恩譚というのに比べて多分に現代的なテーマです。ただしここで気をつけたいのは、なんでもかんでも共通点があれば「パクリ」呼ばわりする最近の風潮です。ただ原因不明に幼児化していく話だとそれは不条理小説になるのですが、そこに動物報恩譚を導入してある種の説明をつけたというのはかなりの妙案で、それにより真琴シナリオは現代の寓話としてオリジナリティを獲得しているとあえて主張しておきます。 |
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さて、こうして祐一と真琴の恋愛は悲劇となります。注目すべきはこの悲劇の構造です。現代の恋愛概念の中ではなにが最大の悲劇なのかという問題です。 |
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KOWA君がご存じかどうかはわかりませんが、最近一部で大きな話題となった『ほしのこえ』というアニメがあります。新海誠という人が実質一人だけで作り上げた驚くべき作品です。舞台は人類が謎の地球外生命体と交戦を開始した未来、ノボルとミカコというふたりが主人公です。ふたりは同じ中学校に通う彼氏彼女なのですが、卒業と同時にミカコは国連宇宙軍に参加し、ノボルは地球で高校へ進学。二人は携帯メールでのやり取りを続けますが、ミカコの乗る宇宙船がワープを繰り返すたびにメールの到着までの時間が長くなっていきます。一光年で一年。そこで「ねえ、私たちは、宇宙と地上にひきさかれる、恋人みたいだね。」という決めゼリフが出てきます。あるいは携帯の液晶画面にうつる「メール到着まであと:8年・224日・18時間」という文字のインパクトがこの作品の白眉です。 |
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『ほしのこえ』の恋人たちを襲うのは、平易に言えば遠距離恋愛の悲劇以外の何物でもありません。しかし、この物語ではそれが距離ではなく「メール到着まであと:8年・224日・18時間」という風に、時間に換算されているということが重要です。ノボルが「光の速さで八年かかる距離なんて、永遠っていうのと何も変わらない。僕とミカコの時間はどんどんずれていく」と言い、そして「俺は、ひとりでも大人になる」と決意する感情はどういう観念に支えられているのでしょう。 |
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長々と『Kanon』から離れてしまいましたが、『ほしのこえ』に見られる恋愛のパラダイムは真琴シナリオのそれと同一のものであると言いたいのです。恋愛という概念は時代によって変遷するものであり、現代にもっとも重視される条件は「同じ時間を歩む」ということなのではないでしょうか。先の舞シナリオでは通過儀礼のために必要な協力者としての恋人という側面を示しましたが、それを一般化して言えば「一緒に成長していこう」という恋愛のカタチが現代の理想とされているということであり、それは時間の問題に還元されます。恋人たちの時間のすれ違いとは、すなわち成長のすれ違いだからです。ですから、私たちはそのような姿を恋愛の最大の悲劇と考えます。実は余命幾ばくもない美坂栞との恋愛もこのような悲劇性を持って訴えかけてくる物語なのですが、相手がどんどん幼児化してしまうという真琴の姿は、この時間的なすれ違いの様をより徹底して描いていると言えるでしょう。一緒に成長していく関係が絶望的である恋愛こそ、私たちが強く共感を覚える悲劇なのです。 |
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私が『ほしのこえ』を引き合いに出したのは、真琴シナリオが『Kanon』の中だけで最も良質なエピソードというにとどまらないのではないかと考えたからです。真琴シナリオは、今サブカルチャー周辺ではどのような物語がいちばん受けるのかということを示したのであり、いわば最新モードの恋愛悲劇を提示したのではないでしょうか。『ほしのこえ』は決めゼリフやモノローグの多用など、言うまでもなくヴィジュアルノベル的な感性に支えられているのですが、むしろ私は時間に焦点を当てたすれ違いの描写にこの物語の現代性を感じます。そしてそれは真琴シナリオの中に先行して描き出されている恋愛悲劇のパラダイムであるということを強調したいのです。
時間のすれ違いという真琴シナリオの大前提であるテーマを踏まえて個々のエピソードを見ていくと、祐一はしっかりその悲劇に抗おうと戦っています。天野美汐に対して、彼女の心の傷に触れるのを承知で真琴の友達になってくれと頼むのも、人の成長の軌跡をかりそめでも真琴に与えてやろうとするからです。疑似家族とはいかないまでも、ここで必要とされていたのは祐一、舞、佐祐理のような関係であるということは言うまでもありません。 |
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また、彼女に結婚というひとつの成就を約束するのも、それが理想的な恋人たちの成長の到達点であるべき儀式だからでしょう。もともとマッチョ的な父性の持ち主である祐一は、名雪編や栞編で「何十年先でもずっと一緒にいたい」というほとんどプロポーズのような愛の告白をする男ですが、実際結婚ということを口にするのはこのシナリオだけです。正直、私のような甲斐性なしは「結婚」の二文字がでてくるとかなり引いてしまうのですが、ここでの祐一の行為にはまだ必然性を読みとれます。一緒に成長を歩むという理想が絶望的な彼にとって、結婚ということが切実な憧れとして実感されているのです。その意味ではただただイノセントに「ケッコンしたい」とつぶやく真琴と同等か、あるいはそれ以上に祐一の方こそ結婚を憧れ、求め、望み、実現させようとするのでしょう。 |
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そして、分かりきったことですが、そういった祐一の努力はまったく無駄な行為です。本人もそれを充分承知していて、その姿がより
一層悲劇性を高めます。この状況には不可避の未来としてやはり「運命」が働いているのですが、これは私がさんざん批判してきたものとはわずかに異なっているのです。真琴シナリオでは物語のはじめに運命のレールが提示されるのではなく、次第に運命が立ち現れてくるという形式をとっていて、創作術としてはむしろ正道を歩んでいると思います。つまり演繹的な描かれ方になっていて、かろうじて「運命装置」は作動していないということです。 |
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また、そういったわずかな差異を評価するとすれば、ラストシーンも無難な描写であると言えます。あゆシナリオでの最後のあゆの復活を、根拠の示されない御都合主義として批判する声はよく聞きます。そしてその批判には一定の正当性があることは確かです。一方、真琴シナリオのラストは想い出の場所である物見の丘に真琴とネコのぴろが寝ているというカットを示すだけで、それ以上の描写はありません。これをイメージカットと取るか真琴の復活と取るかはプレイヤーの判断に委ねられ、ただ希望に満ちた感じだけが確実に伝えられます。私がこれを「無難な」と表現したのは、特に斬新でもない常套手段を使っているからなのですが、それを別に悪いことだとは思っていません。ラストシーンといっても結局は全体のごく一部に過ぎないわけで、むしろこういった部分をやたらと批判する人は、過程を無視するオチ偏重主義です。シナリオ全体のバランスから見て、祐一と美汐の会話からあのカットに繋げる終わり方を私は支持します。 |
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また、この終わり方は現代のフェアリーテールとしての印象を強く残します。真琴の本性が狐だということもその点ではよく考えられた設定です。「狐」は歳時記を見ても冬の季語として載っている動物で、冬だけに現れ消えていく彼女の物語に合わせてあります。そして私は、不条理な展開を消化して美しく語り聞かせてくれるこのシナリオに、寓話というものの持つ力を再確認させられた思いがするのです。 |
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さて、これまでで五人のシナリオ全てについて書いてきました。私自身はそれぞれのシナリオで語り口を変えたつもりですが、一方でそれはひとつのシナリオだけに当てはまることばかりではなく、全体に共通する問題をそれぞれから抽出して書いてきたという側面もあります。今回で言えば、通過儀礼の問題が舞シナリオの中だけでしか描かれていないというわけではないということです。『Kanon』がシナリオの対位法であるなら、それを語る私たちも対位法的になっていくということでしょう。 |
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次のあなたの旋律がどのような位相で奏でられるのか、楽しみにしております。 それでは、また。 |
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