|
HPリニューアル記念特別企画 「電子往復書簡 『Kanon』〜最後尾の旋律〜」 第三回 「だいじょうぶ、と彼は言った」 2002/6/27 十五夜 |
名雪からあゆへ、私たちは語り継いでいます。 |
|
KOWA君の書簡の中で私に多くの示唆を与えたのは、その頃流行りだした「シナリオ重視アドベンチャー系ギャルゲー」が「女の子と仲良くなっていくストーリーが展開するうちに主人公の内面描写に話が移行していく」パターンが圧倒的で、マンネリ化していたという指摘です。繰り返すまでもなく、私はこの辺りの事情に疎いのでその点には思い至りませんでした。 また一方で、その指摘は私があゆシナリオについて感じていたことの漠然とした部分を鮮明にしてくれました。私はあなたが「過度な主人公の内面描写」というありがちさを否定するのと同じように、「ノスタルジア」とそれに伴う「運命装置」というありがちさを否定したいのです。 私が名雪シナリオの良さとして挙げた点は、あゆシナリオではまったく逆になっています。水瀬家に泊まったあゆが祐一の部屋を訪ねてきたとき、彼はあゆを女の子として好きになるという感情を否定しています。それがあゆからキスをされた直後に「俺は、あゆのこと好きだけど」と言い出すのは、心理的ご都合主義ではないかと感じました。なにより、幼いあゆに祐一が受け身でキスをされて(告白されて)いるというのは、実際かなり驚くべきことです。 とはいえ、私はなにも「祐一は男らしくない」といった論理を振りかざすつもりはありません。それどころか、ストーリーを批判したいわけでもありません。私が言いたいのは、ここでは内面描写がさけられているのではなく、そもそも祐一の中に描くべき内面が存在していないということなのです。ここでの祐一は、盗んだたいやきのちょっとした罪の甘さとわずかに思い出してきた記憶と美しい夕焼けと、そしてあゆの孤独な一面を結びつけて、彼女に惹かれています。意地の悪い言い方をすれば、感情をムードに流されています。そして、それは「ノスタルジア」に酔っているということ以外の何物でもありません。 しかし、このシナリオは祐一が耽溺する「ノスタルジア」を見事にひっくり返してみせます。ここで祐一が甘い「ノスタルジア」の拠りどころにしていた記憶こそ、「初恋の少女との別れの日に赤いカチューシャをプレゼントした」という幻の記憶に他なりません。あゆと築きこれからも築いていくはずの夢のようなひととき、それはまさに砂上の楼閣ならぬ夢上の楼閣であり、現実に直面することで脆くも崩れ去っていくのです。ゲームの「ありがちさ」を自覚的に逆転させた展開として非常に感心しました。 私の言った「ノスタルジア」とそれに伴う「運命装置」というのは、「愛の根拠を過去の特別な出来事に求め、その愛を不可避かつ正当なものとする」物語構造です。そもそもコンピューター・ゲームというものはプログラム(pro=前もって gram=書かれたもの)であり、「運命」との親和性は構造的なものと言えます。ですから、RPGにおいて顕著なようにゲームの物語は「運命」に支配されている場合が多く、恋愛シミュレーションにおいてもなぜ「幼なじみ」という設定がメインのヒロインの特権なのかと言えば、過去からやってくる「運命」によって愛の根拠を保証されるからに他ならないのです。 しかしこのような物語構造は大変危険な側面を持っています。筋書きの根拠をなんでも「運命」に委ねて説明してしまうのはとても楽なやり方で、つい乱用してしまうようなことになりかねません。すると演繹的であるべき物語は帰納的になり、筋書きは自動化してパターンの繰り返しに陥ります。これを私は「運命装置」が働く「運命論の世界」と呼んでいるわけです。そして恋愛物語が運命論に支配されてしまったら、恋愛が人に与えてくれる人間らしさ――喜びや苦しみ、快感や嫉妬、つまり描くべき“内面”そのもの――が失われる可能性があるのではないでしょうか。 私は長らくラブコメマンガを愛好してきましたが、近年の作品にはどうも主人公とヒロインの間に過去の因縁があるというパターンが増えてきました。『ラブひな』や『藍より青し』がその例に挙げられます。これらが物語を安易に自動化せずに「運命を全うすることの難しさ」といった問題に歩を進める限りは、私も批判を自動化せずに一定の評価をできますが、それでもジャンルとして危険な兆候であることは間違いありません。これはギャルゲーがサブカルチャーの恋愛物語構造とその消費者に与えた悪影響であると断言します。それだけに私はいささか神経質気味に「運命」を否定し、それを導く「ノスタルジア」を拒否するわけです。 私が最初の書簡の中で、ヒロイン5人の内4人までもが再会であるという点を確認したのは、それが『Kanon』のウィーク・ポイントとなりうるからです。彼女たちとの関係性がノスタルジアから離れなければ、『Kanon』はたちまち単純な運命論に支配された世界となってしまうでしょう。そして運命論に支配された世界なら、“奇跡”などそもそも必要がないわけです。また、実際に出会いが再会であることの弊害は生じているように思います。それはあなたも「わざとらしさ」の例に挙げた「ぶつかってくるあゆ」に代表されるように、出会いの場面が唐突で余韻もないということです。なにしろ印象的で余韻のある出会いは過去の最初の出会いの方に譲らなければいけません。キャラクターの初登場シーンであっても、「再会」にあまり凝った場面をつくるわけにはいかなくなってしまうのです。 |
|
どうもあゆについて書いていると『Kanon』全体の話になってしまいます。もっと彼女だけに的を絞った話題にしなくてはいけませんね。 確かにあゆシナリオは細かなエピソードの積み重ねが巧みです。「たいやき」「学校」「カチューシャ」「大切な物」といったキーワード・キーアイテムのひとつひとつが効果的に配されています。それにしても祐一が記憶を取り戻し始めるきっかけが、たいやきの味であるというのは私の深読みグセを刺激します。それはマルセル・プルースト『失われた時を求めて』の、主人公がマドレーヌを食べることで回想に浸るという導入部を連想させるからです。マドレーヌをたいやきに変えるとはうまい翻案だなと、冗談半分で感心しました。しかし、案外これは本当に制作者がプルーストへのコミットとして描いたエピソードかもしれません。〈記憶〉をめぐる物語を描こうという覚悟のようなものを、『Kanon』の導入部は感じさせてくれるからです。 ただし、プレイ中はこういったアイテムが次から次にでてきて少々多すぎるように感じました。そのため、シナリオのクライマックスにおいてあゆの探している「大切な物」が、「天使の人形」という具体的な物として出て来たとき、私は良くも悪くも驚きました。どう考えても、あゆの失くした「大切な物」とは人形のことではないはずです。 |
|
ここが『Kanon』の面白いところで、作品全体はリリカルでファンタジックな調子に彩られていながら、観念性は丁寧に具象化してみせています。「天使の人形」とはあゆにとっての“願い”、そして祐一にとっての“約束”。もちろんそれはあゆの“約束”であり、祐一の“願い”でもあります。もちろんこれはいちいち説明する必要もないほど安易なメタファーです。しかし、その安易な表現こそ〈ヴィジュアル・ノベル〉というジャンルを方法論の側面から確立させているといえます。あなたは下手をすれば蛇足ともとられかねないあゆシナリオのラストシーンについて、「天使」ではなく「人間」としてのあゆを描きたかったからだと言いました。だから象徴的なあのリュックを背負っていないのだと。そして私は、もうひとつの象徴についホッとさせられます。それはあゆが髪を切っているということです。祐一と再会したときのあゆは、七年前の姿と髪型がほとんど変わっていません。それはおさげから腰に届くほどのロングヘアーに変わった名雪と対照的で、なにか不吉なものを感じさせます。髪を切ったあゆの姿は、記憶の残滓としての不安定な存在ではなく、今や地に足のついた存在なのだという印象を与えてくれるのです。『Kanon』はメタファーで語られる物語。秋子さんの言葉ではなく、印象をすっかり変えたあゆの姿で終わるのは、その象徴主義的な方法論からいって満点の回答です。 月宮あゆについて、そろそろ一区切りつけようと思います。あなたは「奇跡」の二文字で彼女の物語を語っていました。私は「約束」の二文字について考えてみたいのです。太宰治は『走れメロス』の中で「約束」のことを「崇高な水晶」と表現しています。なぜ水晶なのか。それはおそらく、約束は壊れやすい、けれども決してうつろわない、ということでしょう。あゆと祐一の壊れかけた「約束」も、やはりうつろうことはありませんでした。では、「みっつめのおねがい」として「ボクのこと、忘れてください…」と呟いたあゆに、祐一が伝えたメッセージの意味は何だったのでしょう。佐野元春の「約束の橋」という歌のサビはこんなリフレインです。 |
今までの君はまちがいじゃない これからの君はまちがいじゃない |
|
「約束」を交わすなら、願う人にもかなえる人にも必要なのはきっとこんな素直さだと、水晶の譬えは教えてくれています。 |
|
ここでまたしてもプレイ順の話ですが、KOWA君も触れたように栞シナリオはあゆシナリオの後でプレイしなければ十分な理解ができません。もし私が未プレイの人にアドバイスするなら、やはりこの二人の順序だけは逆にしないように念を押すでしょう。結局のところ、『Kanon』における「奇跡」のカギを握っているのはあゆの存在です。そしてそのカギはあゆシナリオをプレイしないと明かされません。これまで再三初回プレイは名雪シナリオにすべきと主張してきた私ですが、事故に遭った秋子さんに関する「奇跡」もあゆシナリオの後でないと理解できないだろうという意見には一定の正しさを認めます。 とはいえ、名雪シナリオは名雪とあゆの関係、秋子さんとあゆの関係がほとんど描かれていません。それどころか名雪は過去も現在もあゆの存在を認識していないようで、彼女が7年前の祐一の身に起こった事件をどの程度まで知っているのかは最後までグレーゾーンになっています。また、あゆシナリオでは深い愛情の交流が描かれる秋子さんとあゆですが、名雪シナリオではわずかな会話があるだけで、到底あゆが「奇跡」を起こす動機が描かれているようには思えません。こうした名雪シナリオの欠点は、あゆシナリオの後にプレイしていると非常に目立ちます。むしろ先に名雪シナリオをプレイした方が、そういった未消化の部分が謎として持ち越され、良い引きになると思われます。変な言い方ですが、悪い部分が目に入らないで済むのです。 しかし、栞シナリオはどう考えてもあゆシナリオの後にプレイしなくてはなりません。このシナリオは祐一、栞、あゆという三人の関係性が非常に大切な要素になっていて、月宮あゆがどういった存在なのか分かっていないと成り立たない描写がいくつもあります。ストーリー自体がほとんどあゆシナリオプレイ後であることを前提としたような作りになっているのです。 もちろんこれは制作者サイドに立った見方です。私たちが言っているのは「制作者の意図としてはこの順序でプレイしてもらいたいだろう」という意見に過ぎません。純粋なプレイヤーとしては当然別の意見もあるはずで、例えばそれはたつき君が私に言った「あゆシナリオを最後にしたほうがいい。先にやっちゃうと後が心苦しいから」というアドバイスです。これこそプレイヤーの心理に根差した意見と言えるでしょう。私はあゆシナリオを最後にする順序を決して良いとは思いませんが、たつき君の友人としてこのアドバイスは彼の心の優しさをあらわしているようで大変微笑ましいものがあります。ただし今度会ったときには、男としてそんな優しさは結局“いいひと”どまりの優しさだぞ、と彼に忠告してあげたい。 閑話休題。栞シナリオをあゆシナリオの後にやらなければいけない理由を一言で説明するなら、それが祐一、栞、あゆのそこはかとない三角関係で推移するストーリーだからです。祐一、栞と同等にあゆにも感情移入できなければ、その恋愛模様を味わうことはできません。 考えてみると、恋愛の王道とも言うべき三角関係が描かれるのは『Kanon』の中で唯一かもしれません。先にも触れたようにあゆと名雪は三角関係が成立するほどの関係を描くに至っていないし、川澄舞と倉田佐祐理はそもそも三角関係に陥らないところからストーリーが始まっていると言って良いでしょう。これは美坂栞だけが再会ではなく初めての出会いであることと関連しているように思います。別の言い方をすれば、出会いの場面がもっとも深い意味をもっているのが栞シナリオなのです。 先に出会いの場面が唐突で余韻がないと言いましたが、栞との出会いはわずかに、そして大きく違います。栞が雪をかぶってしまったことも、祐一にからかわれたあゆが怒ったり拗ねたり笑ったりしたことも、その場限りのエピソードではありません。出会った瞬間のこのささいなやり取りこそが、死を間近に控えた栞にとって生きている実感であり、もう遠い昔に失ったはずの「生きたい」という“願い”を取り戻すきっかけであったのです。それどころか、栞が祐一に求め続けるのはこの「ささいなやり取り」の繰り返しに他なりません。二人の関係は、あゆをも含めたこの出会いの場面にすべてが集約されていると言っても過言ではないでしょう。 また、栞にはもう一方にも重要な関係があります。姉である美坂香里の存在です。悲しみから逃れるために不治の病に冒された妹を認知しようとしない香里は、その悲しみを引き受けて栞と逢い引きを続ける祐一と鮮やかなコントラストをなしています。 栞シナリオの特徴は、沢渡真琴と舞、佐祐理はともかくとして、他ではただ出てくるだけになりがちのレギュラーキャラクターがうまく生かされているという点です(北川だけはどのシナリオであろうが最後までまったく生かされることのないキャラクターですが)。もちろん香里はこのシナリオのための登場人物という側面が強いのですが、彼女と名雪との友情などは他のシナリオではあまり描かれていない要素です。つまり、あゆ、名雪、香里といった、どのシナリオを選んでも登場頻度の高いキャラクターが全員生かされているという点では、もっとも自然な筋書きが展開されています。それは完成度が高いという言い方をしても良いでしょう。 ただしこの完成度の高さの裏には、ストーリー全体に漂うアナクロニズムがあります。不治の病の少女というのはまったく使い古されたイメージであり、一歩引いて考えれば苦笑を禁じ得ません。いまどき堀辰雄の『風立ちぬ』軽井沢サナトリウム深窓の少女的世界か、というような。しかしそのアナクロな雰囲気がまた別な魅力を創りだしているのも事実です。もともと『Kanon』は変わらない街、めぐらない季節・冬、ひとりの少女というように、全体としてどことなく閉塞感が漂っています。それが美坂栞を取り巻く閉塞感はもはや美的レベルにまで高められ、祐一との最後の数日間は幻想的冬の蜜月とでもいうような時空間が現出しているのです。栞は冬の冷たさを美しく伝えてくれます。たいやきと夕焼けで冬の暖かさを感じさせるあゆとはやはり対照的です。それはストールとダッフルコートの違いかもしれません。 しかし、閉塞感は春の訪れと共に消えるというのが『Kanon』の各シナリオすべてのエピローグに共通するカタルシスです。栞はそこで「ある少女」と「奇跡」について語ります。思えば出会いの瞬間、彼女は祐一とあゆ、二人に惹かれていたのです。そしてあゆも栞のことが好きになり、そして二人は同じ一人の男の子が好きだった。だからあのラストシーンで、祐一よりも栞のほうがずっとあゆのことを理解しているというのは、彼女たちにとってとても幸福で、少しだけ残酷なことです。争いあえないことのつらさとでも言いましょうか。これこそどうしようもない三角関係です。そして私は、このどうしようもない三角関係がどうしようもなく魅力的に思えるのです。 |
|
最後にもう一言だけ。これは『Kanon』をめぐる往復書簡。『Kanon』は記憶をめぐる物語ですから、三年を隔てて語るあなたの『Kanon』の記憶に間違いがあろうと、私はそれを指摘するようなことはしません。ただ受け止め、考え、返事を書くだけです。人の記憶が忘却と美化を繰り返すのなら、では人に語られた物語は、その何が報われて何が報われなかったのかについて考えてみるのも良いでしょう。プルーストはマドレーヌで、祐一はたいやきで、ならばゲーマーはブルーベリーでも食べて追憶に臨むのがふさわしいやりかたかもしれません。目に優しいので。 なんだか今回はムダ話が多いようで申し訳ありません。その割に書き残したことも多いような気がして仕方ないのだから、我ながら情けない話です。それでもお互いもうしばらくがんばっていきましょう。 |
|
「第四回 人魚姫はもう足をほしがらない」へ トップページへ |