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HPリニューアル記念特別企画 「電子往復書簡 『Kanon』〜最後尾の旋律〜」 第一回 「少年の空間、少女の時間」 2002/6/5 十五夜 |
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KOWA君も知っての通り、私が『Kanon』をプレイしたのは実に最近のことです。ゲームの発売から三年ほど経過し、アニメの放送さえも終了した今年(2002年)の五月のことでした。もちろんずっと以前からその評判は聴いていたし、むしろキミのような友人を持ったおかげで、その手の情報を耳にするのは普通の人よりはるかに早かったはずなのです。そういった一部の友人達の熱狂をよそに私が今までこのゲームに手を出さなかったことに、特別な理由はありません。むしろ、このローカルなブーム(18禁ゲームという点だけで、それはまさにローカルなものと判断できました)にあえて手を出さない自分の仲間内での立ち位置に一人で悦に入っていたのです。 そんな私が今更ながらに『Kanon』をプレイしようと思い立ったのは、東浩紀の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)という本を読んでからです。詳しい説明は省きますが、この本では90年代オタク系文化の代表として“ギャルゲー”が取り上げられており、それを至って簡潔明瞭に定義した以下の一文が秀逸でした。 |
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「その基本的な形式は、プレイヤーが複数用意された女性のキャラクターをさまざまなシステムを通して「攻略」し、報酬として与えられるポルノグラフィックなイラストを観賞するというきわめて単純なものである。」 |
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『Kanon』に限らず18禁ゲームをほとんどプレイしたことがなかった私は、実際それらをなにやら「面倒くさいもの」と捉えていました。私がギャルゲーに対して抱いていた印象として決定的に見落としていたのは、それが「単純なもの」であるという厳然たる事実です。東浩紀のギャルゲーに対するクールな定義を読んだときはおもわず笑ってしまったのですが、それと同時に「オレもギャルゲーやってみるか」という気になったのでした。 突然の心境の変化に対して、友人は「何を今更…」と笑いながら『Kanon』をチョイスしてくれました。私は「いやあ、オレもそろそろギャルゲーというジャンルを勉強しようと思って」と答え、『Kanon』を受け取ったのでした。 |
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さて、この往復書簡は一応HPのリニューアル記念ということで企画されました。それにしても、なぜお題が『Kanon』なのか。ひとつには、私とKOWAが共通項として語り合えるゲームが思いの外少ないという理由があります。私はコンシューマー機を全く所持しておらず、ゲームといえばもっぱらパソコンで、しかもファルコムや光栄のメジャータイトルを中心に楽しむユーザーです。一方KOWAは複数台のコンシューマー機を所有するゲーマーで、パソコンでゲームをするのはコンシューマー機では遊べない良作(必然的に18禁が多くなる?)をチェックするためというタイプであり、二人のゲーム体験は近年ほとんど噛み合っていません。そんな中、前述の経緯で私が『Kanon』をプレイしたことにより、おもわぬ共通ネタとしてこのゲームが浮上してきたわけです。 その上で、私たちは三年も前に出たゲームを今更取り上げることに、あえて意味を見いだしました。まず第一に、いわゆる“レビュー”である必要がないということ。コンシューマー機に移植されアニメ化までされたこの作品に対して、「買いか否か」というものさしで語ることは全く無意味です。むしろアニメの放送が終了し、これ以上のメディア展開がほとんど考えられない今のタイミングでこそ、“原典”であるところのPC版『Kanon』についてパーソナルかつパブリックな態度で語ってみるのが面白いのではないかと考えたわけです。 また、三年という時間は私とKOWA、二人のタイムラグでもあります。私がつい最近このゲームをプレイしたのに対し、KOWAは発売された最初期に「名作!」の声を挙げたプレイヤー層に属します。私の認識では、彼は仲間内での『Kanon』広め教の宣教師といった立場に当たるのではないでしょうか。私と彼の間の丸三年という差が、語り方にどんな違いをもたらすのか、誰より私たち自身が興味のあるところです。 そして『Kanon』を取り上げようと決めた時に、そのままこの往復書簡という形式が選択されました。企画段階では対談でもやろうかと考えていましたが、マルチシナリオの『Kanon』を語るなら往復書簡にしたほうが面白そうではありませんか。 最後に断っておきますが、話し合って『Kanon』についての往復書簡をやろうと決めた時、二人とも酒は全く入っていませんでした。この企画はしらふの時に決めたものです。むしろその方が奇妙なことだと自分でも思います。それとも私たちは別の何かに酔っていたのでしょうか。 |
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第一回なので少々概説めいたことを語ってしまいましたが、ここからは「書簡」に戻ります。私は『Kanon』をプレイするにあたって、二人の友人に「どんな順番でシナリオを攻略すべきか?」を問いました。ソフトを貸してくれたたつき君は「あゆを最後にした方がいい。最初にしちゃうと後が心苦しいから、名雪あたりから行くのがいいんじゃない」とアドバイスをくれました。そしてKOWA君、キミは「あゆシナリオを最初にやって欲しい。するどい人なら他のシナリオであゆシナリオのオチが読めちゃうから、あのインパクトは最初にするべき」と教えてくれました。それと同時に「名雪シナリオが一番つまらないんだよな。だからあれは中盤あたりで消化しとくのがいいかな」とも言っていましたね。 たつき君のアドバイスを先に聞いていた私は、キミの話を聞いた時点で既にプレイを開始しており、そのまま名雪シナリオを最初にクリアしました。その後は二人の意見を折衷して進行を考え、名雪→あゆ→栞→舞→真琴の順序でプレイしていったのです。 結果として、自分のプレイ順は良かったのではないかと思います。その理由も含め、まず名雪シナリオについて語っていきましょう。 水瀬名雪は主人公の幼なじみ、そしてひとつ屋根の下で暮らすことになる女の子です。私は以前別の場所で月宮あゆを本質的ヒロイン、対して名雪を実質的ヒロインと定義したことがありますが、それはこの設定を踏まえたものです。概ね「幼なじみ」はギャルゲーの、「ひとつ屋根の下で暮らす」はラブコメマンガの、メインとなるヒロインが持つ王道の設定です。そしてゲームを始めて最初に登場する女の子も名雪に他なりません。『イースU』のリリアのごとき登場シーンを見れば、予備知識のないプレイヤーは全員名雪こそメインのヒロインなのだと考えてしまうでしょう。 もちろん『Kanon』の持つ主題(テーマ)を考えれば、メインのヒロインが月宮あゆであるということは疑いようがありません。テーマにおいて月宮あゆ、設定において水瀬名雪にヒロイズムを見るのが、それぞれを本質的ヒロインと実質的ヒロインに分けた根拠です。キミは「名雪シナリオが一番つまらない」と言いましたが、私は実質的ヒロインとして名雪のシナリオは重要な物語であり、最初にクリアするべきシナリオだと考えます。 それにしても、名雪シナリオが物理的な点で他のシナリオに劣っている事は認めなければいけません。つまり、単純に言って話が短いのです。テキスト量を正確に比較したわけではありませんが、少なくともプレイしてみて「短いような印象を受ける」というのはマイナスポイントでしょう。他にも名雪はまわりのキャラクターに比べて報われない点が多々あります。たとえばオープニング曲が流れる画面では、このゲームの最大の特徴である各キャラの「決めゼリフ」が紹介されますが、名雪のそれは「私の名前、おぼえてる?」であり、その時点で既出の言葉が使われているのです。つまるところ、名雪は印象的な「決めゼリフ」に欠けるところがあり、それは『Kanon』というゲームの中ではキャラ的な売りの無さに直結してしまっています。そんな風に考え出すと全体の印象も悪くなってしまうもので、名雪の「ファイト、だよ」という口グセも、あゆの「…約束、だよ」に比べれば全くの戯れ言に過ぎないなあ、などとついつい揚げ足を取ってしまうのです。 そういった不満を感じた上で、なお私が名雪シナリオを重要視し、最初にプレイするべきと考えるのは、主人公である祐一の心情が最もよく描かれているからです。「それは楽しみ方が違うだろ」と突っ込まれるかもしれませんが、まあ聞いて下さい。名雪シナリオにおいては、祐一が「オレはこの子が好きなんだ」と自分の気持ちに気が付く場面がもっとも明らかに描かれています。他のシナリオではプレイヤーの選択義によって「好きだ」という方向性を確定したり(栞、舞シナリオ)、感情の変化を匂わせる形でそばにいることを決心したり(真琴シナリオ)、相手の方からキスされて気持ちを表明されたり(あゆシナリオ!)で、それらは告白の瞬間が愛情の発生した瞬間と同義になっているような印象を受けます。名雪シナリオだけが、祐一の愛情の発生(気付き)とそこから告白に至るまでの過程を描いているのです。 |
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またさらに大事なポイントとして、このシナリオにおいてのみ、祐一は「この街が嫌いだ」という感情を口にします。なぜそのことが重要なのでしょうか。 祐一はこの街での七年前の記憶を失くしています。その詳細はあゆシナリオの中で明らかになりますが、ミもフタもない言い方をすれば彼はPTSD(心的外傷ストレス障害)による記憶喪失といった状態であるわけです。彼がこの街が嫌いだと言うとき、そこには失われた記憶の残滓が無意識下で働いているに他なりません。 結果としてそれは祐一の心情に特殊な偏りを生みます。彼は七年ぶりにこの街に帰ってきたというのに、ノスタルジアに浸ることが出来ないのです。そういった状態は登校時における名雪との会話にもよく表れています。ただし、祐一がノスタルジアを持たないという事実は他のシナリオにおいても重要なことです。考えてもらいたいのは、ゲームのオープニングの締めに使われ、それ以外の場所でも繰り返されるモノローグのセリフです。「俺はひとりの少女と出会った」。ここで言う「ひとりの少女」とは必ずしも月宮あゆのことではなく、プレイヤーが選択するヒロイン五人の内の一人という意味でしょうが、それにしても彼女たちと祐一との関係を考えたとき美坂栞をのぞく四人までが実は「再会」であるという点は見過ごすべきではないでしょう。 「俺はひとりの少女と出会った」と言うとき、そこに「再会」のニュアンスは全く感じられません。むしろプレイヤー(読者?)は「初めて(偶然に)出会った」という意味に解する方が自然です。おそらく彼女たちと出会っていた記憶をほとんど忘れている祐一にとっても、それは初めての出会いに他ならないということでしょう。つまり、彼は少女と決してノスタルジアの中では出会っていない。『Kanon』の中で描かれる「出会い」はセンチメンタルであっても、ノスタルジアの色に染まることは決してないのです。 ノスタルジアとセンチメンタルの決定的違いは、前者があくまで過去に因って立つものであるのに対し、後者には因って立つものがないという点です。そして寄る辺無きセンチメンタルの方が、未来に向けて開かれているのではないでしょうか。 名雪シナリオが初回プレイにふさわしいと考えるのは、祐一のノスタルジアを否定する心情が最もよく表れているからなのです。思い出せないだけでなく、「この街が嫌いだ」と言ってのけるわけですから。最初は祐一に昔を思い出して欲しいと言っていた名雪は、七年ぶりに再会した祐一との新しい関係をやはりノスタルジアに因って取り結べると考えています。しかし、彼女が母親の事故に直面し部屋に閉じこもってしまったとき、祐一が目覚まし時計(これも「未来」を示すアイテム)の録音機能に託したメッセージは「約束」。約束はいつだって「未来」に向けて交わされるものです。その約束を信じ、駅で待つ祐一のもとに向かう名雪の疾走は、まさに過去から「未来」へ向けての疾走であったと感じます。 結局のところ、名雪シナリオは裏を返せば祐一シナリオなのではないかというのが私の意見です。名雪シナリオこそ作品中で祐一がもっともかっこいいシナリオだと断言してしまいましょう。だって、名雪の「わたし、もう笑えないよ…」よりも、祐一の「名雪…/俺には、奇跡は起こせないけど…」の方がよっぽど印象的なセリフだと思いませんか。栞シナリオや真琴シナリオでは自分の無力さに打ちひしがれてばかりいる祐一も、ここでは名雪を未来へ向けて見事にエスコートしてみせています。 その力の秘密がノスタルジアの否定なのです。もちろんそれは他のシナリオにも通ずる要素なのですが、最初に理解するには名雪シナリオが一番でしょう。他の女の子たちに比べて名雪のキャラが弱かろうと、主人公の祐一の描かれ方に目を向ければ「名雪シナリオが一番つまらない」と安易に判断することはできません。 ただ、この主張はさらに別の議論と関わってきます。『Kanon』はギャルゲーなのだから男キャラに注目して名雪シナリオを評価するという発想は根本的におかしいという意見もあるはずです。まあ、この辺のところは追々触れることになると思うので、今はキャラクターとシナリオについて語ってみた次第です。 初回だというのに、ずいぶんと調子にのって書いてしまいました。では、KOWA君のお返事を楽しみにしています。 |
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